事例紹介 | 石巻おばあちゃんの学習塾 <前編>

以前ご紹介した、宮城県石巻の仮り住まい事例「おばあちゃんの学習塾」
物件を掲載してくれた東北芸術工科大、建築学科の学生高橋秀詠くんは、仮り住まいの輪の実行委員メンバーである馬場正尊のゼミ生でもあります。

地震発生から仮り住まいサイトへの物件提供、被災者の方の受け入れまでをまとめてくれました。

地元情報誌に掲載された様子は、>こちら

被災地出身の彼のリアルな思いをご覧下さい。
以下、原文のままでご紹介します。
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2011/3.11
僕は山形市にいた。 大学の準備のため6日に石巻から戻ってきたところだった。
就職活動をしなければと思ってはいるものの、身が入らず遊んでばかりいた。
そして、2時46分。 東日本大震災が起こる。


写真1 石巻市の沿岸部はほぼ壊滅

未曾有の大災害は僕の地元の石巻市を襲った。

数日後。
家族の安否が確認出来、幸い身内に被害者は出なかった。しかし、知人友人とは一向に連 絡がとれない。 すぐにでも石巻に帰ろうと思っていたが、父親から、「こっちは危険だから来るな、」と 言われ、自分がなにも出来ないことにがっかりする。 しばらく山形市内で出来るボランティアをした後、向こうの道路状況が回復した頃に帰省することにした。
山形市は速やかに復旧し、ほとんどいつも通りの生活が戻っていた。 このときすでに仮設住居や避難所の問題がニュースで流されている。 その問題に対して東京で新しいシステム作っている所だという話も馬場先生からのメール で知っていたが、そのとき自分はまだ何も考えていない。

2011/4.6
震災から約1ヶ月後。
石巻に帰る。
僕は自分の車を持っていない。 そもそもガソリンは山形市内でも手に入る状況ではなく、高速道路も一般車両は通行止め で石巻に向かう下道は大渋滞しているという話だ。 電車は津波に飲み込まれてしまい、復旧には1年程かかるといわれ、バスは予約を取らな くては行けなかった。
僕に残された交通手段は自転車しかなかった。趣味でやっているロードバイクにバック パックを背負い、山形市から仙台を抜けて石巻に向かった。 よく行くショップの自転車仲間が途中まで見送ってくれた。 約120キロを6時間かけて走る。 道路はやはり大渋滞だったため自転車で正解だったかもしれない。 仙台を越え、松島を越えて東松島市に入ろうという所から明らかに空気が変わるのを感じる。街全体から殺気のようなものを感じた。
すれ違う車に自衛隊のジープが増え、空には何台ものヘリが飛んでいた。 途中に休憩したコンビニでは全国から支援に来てくれたガス、水道局の作業員の方々が殺 伐とした雰囲気の中、無言で弁当を食べている。 震災から1ヶ月たった所だ、とても疲労しているように見える。 そこらじゅうの道路で止まっているトラックでは運転手が寝ていた。ジープで移動中の自 衛隊員も運転手を残してみんな眠っていた。
そこで気づいた、ここは戦場だと。 道路はがたがたでパンクに気をつけながら自分の家に向かって進んで行く。


写真2 野球場はまるで戦場

無事実家に着き、家の被害を確かめた後、友人の安否を確認して回った。自分の家の数十 メートル先には津波の押し寄せた跡が残っていた。

水道はまだ通じておらず、電気は来たばかりだった。インターネットは回線が混み合ってて不通、電話も市内の人間には繋がらない。 石巻市の大半の地域はそうだったちょうどその頃だった。
メールで馬場先生から「仮り住まいの輪」というものが、たちあがったと聞かされたの は。

2011/4.7
深夜に震度6強の余震が起こる。
僕は風呂に入っていたが、飛び出した。10秒程しか入れなかった。 一時間に数回余震が来る。街全体にただよう緊張感は休まることがない。 停電、断水、3日前に復旧したばかりなのに、またか、と家族は嘆いた。
山形での普通の生活が信じられなくなる。なんというか気持ち悪い。
被災地のリアルはそれほどに過酷だった。

2011/4.9
石巻では市内全ての学校が避難所として使われていた。仮設住居はそのときまだ着工場所 すら決まってなかった。 それにも関わらずその学校も新学期が始まるため校舎を空けなくてはならないと市から宣告されていた。
数千人の避難者がまた移動しなくてならない。 そのため市内の不動産には人が殺到。 友人の一人は大学生のための1ルームに家族全員で住むという。 建築を学んでいる身としてはそんなことは考えられなかった。

そんな状況の中、「仮り住まいの輪」のことを思い出す。

なんとか朝早い時間帯にiPhoneからwebに繋ぎ、「仮り住まいの輪」のサイトを見た。 無償で空き物件を貸し出すというシステムは仮設住居より、はるかに速いスピードでそこ に住むことができ、被災者の負担も少ないものだと思った。
そのときに僕は石巻にはこれが必要だと思いはじめる。
しかし、upされている物件の多くは東京、北海道、山形にあった。石巻はおろか、宮城県の物件すらなかった。

正直これでは、遠すぎる。
そもそもネットの通じない被災地の人間はこのサイトの存在を 知っているはずがなかった。 借りたい人も貸したい人もたくさんいるはずなのに。
この話を家族や友人にした所、身近な所で貸せる物件があることに気づいた。そして友人の父親が新聞の編集長だったこともあり、新聞の載せるようかけあってくれたりした。
そのときに、自分に出来ること、自分にしか出来ないことが見えた。
石巻といっても僕の家が大丈夫であったように被害の少ない地域はある。不動産の管理する空き物件はなくてもホームステイ形式で家の一部を貸してくれる人達は まだいるかもしれないと思った。
うちの母方のおばあさんがその最初の一人だった。 私の母方のおじいさんは昔、市会議員をしていた。おばあさんは家のはなれを学習塾とし て貸し出していた。 古い家だったのでずいぶんと広く、当時はたくさんのお客さんや、塾に通う子供たちで賑 やかだったみたいだ。 その家も今はおばあさんとおじいさんの二人だけで住んでいる。 そのはなれにある学習塾を今回の震災で被害を受けた方に貸し出したいと言ってくれた。
そこで、僕が被災者の方と この学習塾を「仮り住まいの輪」を通じて繋ぐ役割を しようと思った。

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