事例紹介|新潟「家族にとっての “避難”」<インタビュー>

今回ご紹介するのは、株式会社イシズエさんが提供するマンション(会社の保養施設)に仮り住まいした中野さん(女性、30代)のお話です。

当時1歳になったばかりの娘、小学生の甥二人とともに福島県伊達市から湯沢町へ仮り住まいした中野さんは、はじめ、赤ちゃん一時避難プロジェクトの支援でこの町のホテルに滞在していた。郡山市で暮らしている姉夫婦の子ども二人を連れ、実母とともに避難。2011年7月末にはホテルを出なくてはならないことになり、転居先を探していて仮り住まいの輪と出会った。

 

■長岡の知人宅、湯沢町のホテル、北海道を転々と避難
もともと夫婦ともに郡山市出身。夫の転勤をきっかけに、飯館村に隣接する伊達市に引っ越してきたのは震災のほぼ1年前のことだった。原発事故があり、中野さん母子は身の回りのものだけ持って3月19日に自宅を離れ、新潟県長岡市にある大学時代の友人の実家へ。仕事のある夫は自宅に残った。事故の影響は収束せず、滞在期間が1か月近くなるとともに申し訳ない気持ちが募った。避難が長期化しそうな予感もあった。

その頃、小学生の甥たち二人は郡山にいた。新学期が始まったのは4月末。中野さんの姉である田辺さんは、仕事のため郡山を離れられなかった。しかし子どもたちが長袖長ズボンで体育もできないことや給食に不安を感じ、中野さんとともに避難させることを決意。一緒に避難先を探していて、湯沢町の赤ちゃん一時避難プロジェクトを知った。当時中野さんの滞在していた長岡では小学校の空きがなかったが、湯沢町ならば転校生を受け入れられそうとのこと。田辺さんはゴールデンウィークには転校手続きを済ませた。下の子は入学したばかりで、地元の学校には1週間しか通えなかった。

中野さんは姉夫婦の代わりにふたりの甥を連れ、赤ちゃん一時避難プロジェクトのホテルへ移った。

 

■町の人たちの温かさに救われた
湯沢町の人たちはとても親切で、「いつまでもいな」と言ってくれた。町の施設を無償で利用させてくれたり、公民館に福島の新聞を置いてくれたり。雪深いこの地域では冬、子どもたちはスキーウエアで通学する。甥たちのために、学校がお古のスキーウエアや靴、専用のランドセルなどを集めてくれた。

しかし7月末には退去しなくてはならないため、2学期も甥たちが同じ学校に通うためには、ここの近くで長期的に住める場所を探さなければならない。賃貸アパートも視野に入れていた矢先、仮り住まいの輪で物件を見つけ、田辺さんがメールで連絡を取った。ところが8月下旬まで短期で入居している人がいるため、7月末にホテルを退去してもすぐには移れないことがわかった。

7月、まだ空室がないにもかかわらず提供者の株式会社イシズエ・佐藤さんが避難中のホテルまで会いに来てくれた。着の身着のまま福島を出て、夏服を持ってこなかった中野さんたちのため、佐藤さんは子供たちの服や、甥たちのためにサッカーグッズ、娘のためにはキティちゃんやミニーちゃんのぬいぐるみを持ってきてくれた。

また佐藤さんは、もしも転居先が見つからなかった場合に備えて、湯沢にある親族のペンションを紹介してくれた。しかし観光地である湯沢の夏はペンションにとってはかきいれ時のはず。有難かったがいったんは断り、他を探した。

7月末、ひとまず北海道で福島の子どもたちを受け入れている支援プロジェクトが見つかり、帯広から少し離れた士幌町で夏休みを過ごすことにした。自然に恵まれた素晴らしい環境だったが、最寄りの小児科病院まで50キロ。車でも30分かかる。長期的に住むのは難しいと思われた。

 

■「ずっといなさい」という言葉に涙が出た
幸いなことに8月末に予定通りイシズエさんの物件が空き、無事入居できることになった。9月入居と言われたが、新学期に間に合うようカギの受け渡しを早めてもらった。入居当日、有賀社長(当時)と佐藤さんが東京からやってきた。有賀社長が抱えていたのは「娘が買ってよこした」という山ほどのぬいぐるみ。

「社長さんがとても気さくで、「ずっといなさい」と言って下さって。涙が出ましたね」(中野さん)

「赤ちゃんがいるから」と部屋はクリーニング済み、エアコンも入れ替えられ、布団は週末に訪れる家族(夫、姉夫婦)の分まで新調されていた。また「子どもはDVDを観るでしょう」とDVDプレーヤーまで用意してくれていた。

仮り住まい=間借りというイメージがあったが、部屋は景色のよい2LDKのマンション。ホテルに避難している間は、部屋は個室でも300人近くの避難者が集団生活を送っており、入浴や食事の時間が決まっていた。ここでは、家族だけでゆっくりと暮らせることが有難かった。

 

■家族が離ればなれになること
地元・伊達市から避難した人は、中野さんの知り合いの中にはあまり多くなかった。この地域は自営業の人が多く、地元を離れられない人も多かったのではないか、という。避難したくてもできない事情のある人が多いなか、自分たちだけ避難していることが申し訳なく「避難している」とおおっぴらには言えない気持ちもある。

一番大変なのは、家族が離ればなれになることだ。夫が毎週末通ってくるには、高速道路料金が免除されてもガソリン代だけで月7万円くらいかかる。二重生活は決して楽ではない。週末ごとに会いに来る母親に「帰らないで」とすがりつく甥たちの姿を見るのも辛かった。慣れない土地で、万が一病気などした場合の心配もある。
それでも、

「避難どうしようかなと思っている人がいたら、避難した方がいいかもしれない」(中野さん)

甥たちの通う小学校では、1学期に転校してきた34人の子どもたちが2学期には15人に減っていた。19人は新潟市内や宇都宮へ引っ越したという。福島に戻った子どもはひとりもいなかった。赤ちゃん一時避難プロジェクトでホテルに滞在している間も、「(地元には)2〜3年は帰れない」という人が多かったという。

中野さんたちの契約はガイドラインに沿って3ヶ月となったが、有賀社長と佐藤さんは「何度でも更新していい」、「落ち着くまで、いつまででもいてください」と言ってくれたそうだ。

仮り住まいの「輪」は、こうした有志のオーナーたちが支えてきたものだ。2012年6月末をもってマッチングサイトの運用は停止されるが、今も避難者の受け入れを続けているオーナーたちが全国にいることを、ここに改めて記しておきたい。

 

(取材・文/石神夏希)

 

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