事例紹介|新潟「家族にとっての “避難”」<インタビュー>

今回ご紹介するのは、株式会社イシズエさんが提供するマンション(会社の保養施設)に仮り住まいした中野さん(女性、30代)のお話です。

当時1歳になったばかりの娘、小学生の甥二人とともに福島県伊達市から湯沢町へ仮り住まいした中野さんは、はじめ、赤ちゃん一時避難プロジェクトの支援でこの町のホテルに滞在していた。郡山市で暮らしている姉夫婦の子ども二人を連れ、実母とともに避難。2011年7月末にはホテルを出なくてはならないことになり、転居先を探していて仮り住まいの輪と出会った。

 

■長岡の知人宅、湯沢町のホテル、北海道を転々と避難
もともと夫婦ともに郡山市出身。夫の転勤をきっかけに、飯館村に隣接する伊達市に引っ越してきたのは震災のほぼ1年前のことだった。原発事故があり、中野さん母子は身の回りのものだけ持って3月19日に自宅を離れ、新潟県長岡市にある大学時代の友人の実家へ。仕事のある夫は自宅に残った。事故の影響は収束せず、滞在期間が1か月近くなるとともに申し訳ない気持ちが募った。避難が長期化しそうな予感もあった。

その頃、小学生の甥たち二人は郡山にいた。新学期が始まったのは4月末。中野さんの姉である田辺さんは、仕事のため郡山を離れられなかった。しかし子どもたちが長袖長ズボンで体育もできないことや給食に不安を感じ、中野さんとともに避難させることを決意。一緒に避難先を探していて、湯沢町の赤ちゃん一時避難プロジェクトを知った。当時中野さんの滞在していた長岡では小学校の空きがなかったが、湯沢町ならば転校生を受け入れられそうとのこと。田辺さんはゴールデンウィークには転校手続きを済ませた。下の子は入学したばかりで、地元の学校には1週間しか通えなかった。

中野さんは姉夫婦の代わりにふたりの甥を連れ、赤ちゃん一時避難プロジェクトのホテルへ移った。

 

■町の人たちの温かさに救われた
湯沢町の人たちはとても親切で、「いつまでもいな」と言ってくれた。町の施設を無償で利用させてくれたり、公民館に福島の新聞を置いてくれたり。雪深いこの地域では冬、子どもたちはスキーウエアで通学する。甥たちのために、学校がお古のスキーウエアや靴、専用のランドセルなどを集めてくれた。

しかし7月末には退去しなくてはならないため、2学期も甥たちが同じ学校に通うためには、ここの近くで長期的に住める場所を探さなければならない。賃貸アパートも視野に入れていた矢先、仮り住まいの輪で物件を見つけ、田辺さんがメールで連絡を取った。ところが8月下旬まで短期で入居している人がいるため、7月末にホテルを退去してもすぐには移れないことがわかった。

7月、まだ空室がないにもかかわらず提供者の株式会社イシズエ・佐藤さんが避難中のホテルまで会いに来てくれた。着の身着のまま福島を出て、夏服を持ってこなかった中野さんたちのため、佐藤さんは子供たちの服や、甥たちのためにサッカーグッズ、娘のためにはキティちゃんやミニーちゃんのぬいぐるみを持ってきてくれた。

また佐藤さんは、もしも転居先が見つからなかった場合に備えて、湯沢にある親族のペンションを紹介してくれた。しかし観光地である湯沢の夏はペンションにとってはかきいれ時のはず。有難かったがいったんは断り、他を探した。

7月末、ひとまず北海道で福島の子どもたちを受け入れている支援プロジェクトが見つかり、帯広から少し離れた士幌町で夏休みを過ごすことにした。自然に恵まれた素晴らしい環境だったが、最寄りの小児科病院まで50キロ。車でも30分かかる。長期的に住むのは難しいと思われた。

 

■「ずっといなさい」という言葉に涙が出た
幸いなことに8月末に予定通りイシズエさんの物件が空き、無事入居できることになった。9月入居と言われたが、新学期に間に合うようカギの受け渡しを早めてもらった。入居当日、有賀社長(当時)と佐藤さんが東京からやってきた。有賀社長が抱えていたのは「娘が買ってよこした」という山ほどのぬいぐるみ。

「社長さんがとても気さくで、「ずっといなさい」と言って下さって。涙が出ましたね」(中野さん)

「赤ちゃんがいるから」と部屋はクリーニング済み、エアコンも入れ替えられ、布団は週末に訪れる家族(夫、姉夫婦)の分まで新調されていた。また「子どもはDVDを観るでしょう」とDVDプレーヤーまで用意してくれていた。

仮り住まい=間借りというイメージがあったが、部屋は景色のよい2LDKのマンション。ホテルに避難している間は、部屋は個室でも300人近くの避難者が集団生活を送っており、入浴や食事の時間が決まっていた。ここでは、家族だけでゆっくりと暮らせることが有難かった。

 

■家族が離ればなれになること
地元・伊達市から避難した人は、中野さんの知り合いの中にはあまり多くなかった。この地域は自営業の人が多く、地元を離れられない人も多かったのではないか、という。避難したくてもできない事情のある人が多いなか、自分たちだけ避難していることが申し訳なく「避難している」とおおっぴらには言えない気持ちもある。

一番大変なのは、家族が離ればなれになることだ。夫が毎週末通ってくるには、高速道路料金が免除されてもガソリン代だけで月7万円くらいかかる。二重生活は決して楽ではない。週末ごとに会いに来る母親に「帰らないで」とすがりつく甥たちの姿を見るのも辛かった。慣れない土地で、万が一病気などした場合の心配もある。
それでも、

「避難どうしようかなと思っている人がいたら、避難した方がいいかもしれない」(中野さん)

甥たちの通う小学校では、1学期に転校してきた34人の子どもたちが2学期には15人に減っていた。19人は新潟市内や宇都宮へ引っ越したという。福島に戻った子どもはひとりもいなかった。赤ちゃん一時避難プロジェクトでホテルに滞在している間も、「(地元には)2〜3年は帰れない」という人が多かったという。

中野さんたちの契約はガイドラインに沿って3ヶ月となったが、有賀社長と佐藤さんは「何度でも更新していい」、「落ち着くまで、いつまででもいてください」と言ってくれたそうだ。

仮り住まいの「輪」は、こうした有志のオーナーたちが支えてきたものだ。2012年6月末をもってマッチングサイトの運用は停止されるが、今も避難者の受け入れを続けているオーナーたちが全国にいることを、ここに改めて記しておきたい。

 

(取材・文/石神夏希)

 

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事例紹介|千葉 「ママ同士だからできるサポートを」<インタビュー>

今回ご紹介するのは、仮り住まいの提供だけにとどまらず、お母さん同士として子育てを含む暮らしのサポートをされた事例です。
提供者の田島さんは千葉県市川市でマンションを経営する大家さんであり、6歳・3歳のお子さんを育てているお母さん。1歳のお子さんとともに福島市から避難した喜多川さんにマンションの一室を提供しました。

 

■入居者:山形、湯沢を経由して千葉で仮り住まい
喜多川さんは夫妻ともに福島出身。原発事故があってから3月中は一歩も外に出ず福島市の自宅に閉じこもっていたと言う。5月の連休を利用して山形のペンションに宿泊客として4日間程滞在。いざというとき山形に避難することも想定しての様子見だった。

その後知り合いから湯沢での赤ちゃん一時避難プロジェクトを紹介され、4/7から新潟県へ。夫は福島に戻り母子のみホテルに滞在していたが、「7月末いっぱいで終わり」との情報を受け(実際は8月末まで延長された)、行き先を見つけなくてはならなかった。
「別荘なんかを貸してくれる人がいるらしい」といった話を聞き、夫はインターネットで、妻も滞在先の湯沢から携帯電話でこうした物件や支援の手を探していたとき、仮り住まいの輪で田島さんの物件に出会った。

 

■提供者:空き住戸と被災者のマッチングサイトを探していた
喜多川さんと同じく小さなお子さんを育てる田島さんは、原発事故直後から1週間程は換気扇をふさいで家に閉じこもっていたと言う。その間、Twitterや掲示板、Facebookを通じて情報収集・交換をしていた。
被災地のために何かしたいが、小さい子どもがいて、現地には行くことは難しい。
自宅でもあるマンションは、ちょうど法人の退去がありいくつか空室が出たところだった。この部屋を被災した人に提供したいと考え、「空き住戸と被災者のマッチングサイト」を探す中で、仮り住まいの輪を知った。他の類似サイトに情報を掲載しつつ、運用開始とほぼ同時に仮り住まいの輪にも登録した。

 

■子育て中のママを想定し「どんなサポートができるか」を発信
田島さんは最初から、提供する上限を「(複数室の場合)合計で12ヶ月分」と設定した。つまり2室なら6ヶ月ずつ、3室なら4ヶ月ずつとなる。それ以降は半額程度で定期借家に移行させてもらう。
また最初から「小さな子どものいるお母さんの受け入れ」を想定していた(※限定ではない)。サイトの募集情報には、どんな環境で何が出来るのかを「育児や買い物、行政との連携などいろいろできます」「自宅の子供部屋を一緒にプレイルームとしてお使いください」「ベビー子供用品などもあります」といったやわらかい伝え方で書いた。子どもの写真を載せたことも、見る人の安心感や問合せの際のハードルの低さにつながったようだ。

喜多川さんは以前は船橋に住んでいたことがあり、市川ならば友人も近くにいたし土地勘もあった。6月頭に問合せをし、すぐに田島さんから電話があった。
田島さんの物件には複数件の問合せ・下見があり、喜多川さんは、「検討中」だった人のキャンセル待ちだった。同時に同じく千葉県内のマンションを提供してくれるという不動産屋さんと連絡を取り合っていたが、海に近い立地であることが不安だった。
ちなみに田島さんの物件への問合せはすべて福島からで、宮城や岩手の人はいなかった。検討中だった人は郡山で、自宅が指定避難区域から外れたため、避難自体を中止したそうだ。

7/1、喜多川さんが入居。1週間程前に福島の自宅に戻り、準備をした。身の回り品、布団1組、着替え、小さなテーブル等。レンタカーを借りて自分たちで運んだ。その他、家具家電は現地のレンタルで揃えた。

 

■住居提供以外のサポートが仮り住まいの支えに
喜多川さんが到着すると、田島さんが手作りの周辺マップを用意してくれていた。買い物に便利な場所、オススメの飲食店まで解説や現地の写真を添えて紹介されている。小児科をはじめとする地域の病院についても詳しく教えてくれた。

実は田島さん自身、お子さんの身体が弱く病院に連れて行くことが多かった。2011年2月末に退職するまでは働きながら子育てをこなしていたが、専門科ごとの休診日や診察時間、救急対応が毎日なのか一日おきなのかといった情報を、複数の病院について把握している必要があった。結果、地域の病院や保育行政についてはずいぶん詳しくなった。知らない土地で子育てをする喜多川さんにとっては、かなり心強い先輩ママだ。
一緒に買い物や食事へ行ったり、夏の花火大会には、田島さんの部屋へ喜多川さん親子が訪れ家族ぐるみで花火を見たこともあった。また田島さんのお子さんが小さな頃遊んだおもちゃを譲り受けることもあったそうだ。別の階に住んでいるため、普段はメールや電話でも連絡を取り合っている。

「会ってみるまではどんな方か分からないので不安でした。でも、田島さんはとても話しやすくて、何でも聞きやすいのが助かっていますね。ゴミの日をメールで教えてもらったり。ここはお店も近いし、公園や神社もあって住みやすい」(喜多川さん)

「些細なことでも連絡を取り合っています。何日か顔を見ないと『元気ですか?』とメールしていますね」(田島さん)

喜多川さんより前に、入居を決めて避難してきた一家がいた。ただ避難する家族の人数が増え、こちらの物件では手狭になったため、田島さんが一緒に物件探しを手伝ったそうだ。この一家は住民票を千葉県内へ移したが、行政とのやり取りや、中学生になるお子さんの転入手続きなどもサポートした。今では友達がたくさんできて、「帰りたくない」と言っているそうだ。下のお子さんは難しい病気で都内への通院が必要なため、車での送迎も田島さんが手伝っている。
実際にこれだけのサポートをしている、ということ以上に 「こうしたサポートを必要としていることに気づける」というきめ細やかさが印象的だ。子育てに苦労した経験があるお母さん同士だからこそのサポート、と言えるかもしれない。

 

■いずれは福島に帰りたい
結果的にこの物件への仮り住まいは1室になったため、最大で12ヶ月まで延長が可能になった。

「でも、いずれ戻りたい。戻れるかな…」
(喜多川さん)

家を買ったばかりだったし、出産前に転職したばかりだった仕事にも復帰したい。 夫は福島に残って働いており、週末など仕事のないタイミングで千葉へ通っている状況だ。地元に残る知人たちが、土の入れ替え等、少しでも放射線量を下げる取組みをしている話も聞いている。

避難することを他の人に勧められるかと言えば、難しい面もあるという。「生活が2つになるし、経済的負担も大きい」というのが理由だ。避難することに対して、周囲の反応は「止める人もいないし、賛成という人もいなかった」。両親も本人たちに任せるという反応だったようだ。
ただ喜多川さん自身はこちらへ来て「本当によかった」と思っていると言う。子どもも落ち着いている。山形に避難した知人は子どもと自分だけの生活が寂しく、しょっちゅう福島に帰っているという話も聞いた。たとえ田島さんほど具体的な子育て支援でなくても、相談できる人や話し相手がいるだけで避難した人にとっては支えになる。

お母さんによるお母さんのサポート。放射線の影響に対する不安が続く中、こうした支援への期待はますます高まっていきそうだ。

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2011年3月11日から1年が経ちました。
仮り住まいの輪活動レポートでは現在、昨年取材したケースをご紹介しています。
この1年間を振り返り、これからを考えるために、 役立てて頂ければ幸いです。

(取材・文/石神夏希)

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事例紹介|東京 「会えてよかった」<インタビュー>

今回ご紹介するのは石巻から東京へ仮り住まいされた安藤さん(仮名、60代女性。夫70代)のケースです。
※写真は全て、安藤さんご自身が2011年5月に被災地を訪れた際に撮影されたものです。

■石巻から東京へ
夫はもともと生まれも育ちも東京。4年前にリタイアし、長年暮らした東京から妻の郷里である石巻へ夫婦で移住した。夫の好きな釣りを楽しむつもりだったという。
日和山の自宅は高台のため津波の被害に遭わずに済んだが、眼下の街はすべて流された。
3月20日、東京で暮らしていた娘夫婦の自宅へ身を寄せた後、仮り住まいの輪を通じて方南町(杉並区)のワンルームマンションに夫婦で入居した。

 

■半壊の自宅から、車での移動生活へ
地震の直後、自宅周辺では何日にもわたって火事が続いていたという。電気の復旧しない中、夜になれば火事の炎が明かり代わりだった。
半壊した自宅には、支援物資が届かなかった。安藤さんたち

の手元にあったのはお米、カップラーメンなどわずかなレトルト食品、ガスボンベ4本。朝おかゆをつくり、一日3回に分け少しずつ食べる。いつまで食べるものが続くかも分からない。おいしいものは食べずになるべく後に残し、お腹が空くのでなるべく動かないようにしていた。
井戸水を汲んできて下着を洗濯し、夜は暖房も明かりもつかない部屋で身を寄せ合って眠った。雪が降り続けていた。
4日目頃に野菜を持って訪ねてきてくれた友人は「絶対に外に出ちゃダメだよ」と厳しく言って帰った。ATMや自動販売機を壊してお金を取る人が出るなど治安は悪化し、街には瓦礫だけでなく遺体も多く残されていた。安藤さんたちがショックを受けることを心配しての言葉だった。

5日目には、倒壊の恐れのある自宅から退去するよう勧告を受け、毛布や書類、身の回りの物だけを持って車に乗り込んだ。3日間ぐるぐる走り回り、夜も車の中で眠る。地震から一週間が経とうという頃、携帯電話が通じるようになり、東京にいる娘とようやく連絡が取れた。

仙台へバスが通うようになるのを待って、リュックサックだけを背負い仙台経由で山形へ。山形空港から羽田への航空券はもちろん、避難ルートも東京から娘さんが指示した。
空港のレストランで食べた肉うどんが忘れられないと言う。「こんなに美味しいものかと」。つゆまで飲み干した。

羽田空港で娘が待っていた。周囲の人たちからは「娘さんのためにも、東京にいてほしい」と言われた。安藤さん夫婦の消息が分からない一週間の間、娘さんの心配は如何ばかりだったろう。

 

■仮り住まいの輪を通じた出会い
いったんは娘夫婦の自宅マンションに身を寄せ、「すっごくホッとした」と言うが、そこで長く暮らすことは最初から考えていなかった。娘は早くから実家を出て自立するように育て、嫁いだ今となっては家庭も別。「そんなに迷惑はかけられない」と考えていたからだ。ときには今後のことを考えたり頭を整理したりするため娘宅を離れ、ホテルに外泊することもあった。
娘と夫が近隣地域の都営住宅などを中心に移転先を探している中で、仮り住まいの輪に出会った。方南町という地名を聞いて、安藤さん(妻)自身は短大時代、東中野で暮らしたことがあった。あの辺りならば土地勘もあるし友人たちも住んでいる。気持ちは動いたが、最初は提供者が「何故こんなことをなさるのか」想像もつかなかったと言う。「タダより高い物はない」という言葉もよぎったが、提供者と直接やり取りをした娘から「ちゃんとした人だから大丈夫」と太鼓判を押された。

 

■帰りたい気持ちと帰れない気持ちのはざまで
5月、20平米程のワンルームに夫と二人で移り住んだ。家具家電は日赤から提供されたももの。
当初、夫は「石巻に帰りたい」と言っていたが、お盆に一時帰ることを提案すると「海を見たくない」と言った。安藤さん自身も複雑な気持ちだ。生まれ育った街に帰りたい気持ちはもちろんあるが、子どもの頃暮らした場所は地域ごと流されてしまった。
夫は持病があるが、かかりつけのお医者さんが津波で亡くなり、 石巻に帰っても治療が受けられないという事情もある。
一方、石巻の知人からは「帰ってこなくていいからね」と言われたという。その真意は聞けなかったが、安藤さん夫婦はこれから東京で暮らしていくことも考えている。

住み始めて数ヶ月経った頃、提供者の森さん(仮名)と対面した。立ち話だったが、実際に会って直接感謝を伝えることができ、とても嬉しかったと言う。

「お世話になっているのに顔も知らないというのが心苦しくて。お会いする前の晩はドキドキして眠れなくなるくらいでした。
(会ってみて)目がすごく優しくて。この人だったら少し甘えてもいいかな、と思えたんです。森さんにお会いできて本当によかった。これからもこのご縁を大切にしていきたい」
(安藤さん)

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2011年3月11日から1年が経ちました。
仮り住まいの輪活動レポートでは、昨年取材したケースをいくつかご紹介していきたいと思います。
この1年間を振り返り、これからを考えるために、 役立てて頂ければ幸いです。

 

(取材・文/石神夏希)

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事例紹介|大阪 「被災地は東北だけじゃない」<インタビュー>

今回ご紹介するのは、千葉県東葛地区から大阪市へ仮り住まいされた佐竹さん(仮名)のケースです。
※写真は現在仮り住まい中のお部屋(佐竹さん提供)

■ホットスポット付近の自宅から大阪へ避難
佐竹さんは、夫と小学校1年生の娘との3人家族。
東葛地区にある自宅はいわゆる「ホットスポット」にほど近く、高い放射線量が観測されたことに不安を感じて避難を検討していた。しかし2年前、実母の面倒を見るため実家近くに引越してきたこともあり、地元を離れることについてはかなり悩んだという。

「夫は、『気持ちは分かるけれども、子どものことを考えたら、遠くに行くに越したことはない』と言ってくれて、私が決断できるまで待っていてくれました」(佐竹さん)

「どうにかここで頑張れるのでは」との思いで、子どもにはお弁当を持たせたりマスクを着けて登校させたりと、できる限りの対策をしていていた佐竹さん。公園に遊びに行かせることも控えていたが、周囲には同じようにしている子がいなかった。「みんなと違うことを、子ども自身はどう感じるんだろう」と考えたことも、避難を決断する後押しになったという。
沖縄のマンスリーマンション等も検討したが、最終的には仮り住まいの輪を通じて出会った大阪市内のマンションへの避難を決定。子どもの学校が夏休みに入るのを待って母娘二人で大阪へ移り、2学期から市内の小学校に転入させた。夫は仕事のため自宅に残った。


■Twitterで仮り住まいの輪を知る

佐竹さんは震災後の情報収集ツールとしてTwitterを活用しており、仮り住まいの輪もTwitterで見つけた。
避難をするならできるだけ遠く、と考えていたが、夫が会いに来やすいよう交通の便の良い大阪を希望地に決めた。犬と一緒に暮らせることも必須条件だった。
そこで「大阪」「ペット可」の2つの条件で絞り込んだところ唯一ヒットしたのが、大阪市内の不動産会社さんが提供していたマンション。社長含めスタッフ全員の顔写真が掲載されていた自社サイトを確認できたのも決め手になった。

「顔が見られるとこんなにも安心するんだな、と実感しました」(佐竹さん)

問合せをしたのが6月末〜7月初め頃。仮り住まいの輪のガイドラインで示されていた基準(3ヶ月間)を参考に、夏休み1ヶ月間だけの避難を希望した。
メールをしてすぐに担当者から「長期避難の人から優先で考えているので、1ヶ月だけの方はいったん保留でお願いしています」と電話があった。

「(長期で仮り住まいできるのは)こちらとしては願ったり叶ったり。そういうお話をして頂いて、ようやく引越をする決断ができました」(佐竹さん)

すぐに夫と相談し、1年間の長期契約で仮り住まいすることを決断。
最初のメールで福島県からの避難ではないことを書き添えてあったが、「福島の人に限ってはいないので大丈夫です」と返答をもらった。
仮り住まいの輪での問合せはこれが初めてだったが、1件目で入居が決まった。


■提供者の精神的なサポートが支えに

佐竹さんの親類・家族が、仮り住まいの輪の仕組みに不安や疑いを感じることもあったようだ。「騙されているんじゃないか」「 無償で住めるなんて、そんなことあるわけない」と心配する周囲の声を聞き、佐竹さん自身も不安になることもあったと言う。

「(条件等を)書類に残して下さいとお願いしたり、色々なことをしつこく聞いてしまった。親切にして頂いているのに失礼だなと思ったんですが、それに対してもすごく丁寧にお返事をもらって」(佐竹さん)

周囲の環境も気になっていたため事前に現地を訪れ、その際、契約書を交わした。新しくはないがよく手入れ・掃除されていることが分かるマンション。地下鉄の駅前という好立地で、徒歩圏内で生活に必要な物はすべて揃うため、車を置いてきたことは不便にはならなかったそうだ。家具はいずれ家族が再び一カ所で暮らすことを想定して、できるだけ新しく買うことはせず、ほとんど自宅から大阪へ運んだ。

「最初は、小さいお部屋でいいですと言ったんですが、『ご主人がいらっしゃることがあるなら、3DKが空いているからそちらがいいんじゃないですか』と広いお部屋を勧めてくれました。電気やエアコンも新しい物に交換して下さって。本当に細やかにしていただいたと思います」(佐竹さん)

加えて、提供者である不動産会社の人々の精神的なサポートもあった。地元のオススメのお店を書き込んだ周辺地図を用意してくれ、「どんどん聞いて下さい」と言ってくれたり、同じマンション内に社員さんが住んでいたり。「無償だから、という理由で絶対に引け目を感じないで」「トラブルがあっても我慢しないで」という言葉がとても心強かったという。


■もっと正直に話せたら、他の人のキッカケになれたかも

一方、佐竹さんの中には「指定区域ではない地域からの引越なのに、本当にいいのかな」「申し訳ない」という思いもあった。
身の回りには、放射能の影響を心配すると「気にするな」と夫に叱られてしまう、というお母さんもいた。引越の際、子どもの同級生の父母たちには本当の理由を告げられず「主人の仕事の関係で」と伝えて転校した。

「でも、あのときもっと正直に話せれば、もしかしたら他の人が考えるキッカケにもなれたのかなと、今なら思うんですけど」(佐竹さん)

子どもが幼稚園の頃から付き合いのあるお母さん友達など、親しい人には本当の理由を伝え「がんばれ」と言って送り出してもらった。
自宅周辺地域のリスクが下がれば戻りたい、せめて関東圏へ戻りたいという気持ちは今でも持っているが、子どもにまた引越や転校を経験させることに、不安を感じてもいる。

「今でも地元のためにできることがあればしたい、と思っています。でも(地元が)好きだと言いながら、地元が大変なときに逃げたんだから、『逃げた人間は戻れない』という気持ちになることもあります」(佐竹さん)


■あたりまえのことができる幸せ
佐竹さんは東葛地区の自宅にいたときのことを、「命を守るためという理由を免罪符のようにして、給食を食べないことも外で遊ばないことも強要してしまっていた」と振り返る。
「でも、子どもが外で遊びたいのはあたりまえですよね」。地元にいるときは、あたりまえのことができなかった。大阪へ来てそうした環境が無くなり、あたりまえのことができる幸せを噛み締めている。

「毎朝子どもを学校に送り出すことに不安を感じるなんて、おかしいことだと思う。関西もリスクがゼロではないのは分かっていますが、リスクが格段に減ったこと、子供が元気に外で遊んでいる姿を見られるのが、何より「よかったな」って、本当に思いますね」(佐竹さん)

必死に対策をして子どもを地元に残してあげることも一つの選択肢だったかもしれないが、そうした状態がずっと続いたとき親子ともども精神的に健康でいられたかというと、自信がない。
大阪へ引越してきて、これからもっと大変なことも出てくるかもしれないが、佐竹さんは「本当に来てよかった」と思っているそうだ。


■被災地は東北だけじゃない

佐竹さんは、今いるところが危ないとなれば、沖縄や海外にも行く覚悟をしているという。一番の理由は子どもの健康を守るためだ。避難を迷っている人へのメッセージを聞いた。

「これ(放射能の影響や問題)は避けられるもの。いま危ないって分かっていることだから、逃げないのは命を諦めることと同じかな、という気持ちがあって。

無償での仮り住まいを申し訳なく思ってしまうことはあります。でもたくさんの人に支えられて今の暮らしができているからこそ、自分が誰かを助けられる機会があったら、同じようにやってあげられればいい。変な負い目を感じずにみんなが平等に避難できるようになれば一番いいと思います。

色んな考え方があるとは思いますけど、被災地は東北だけじゃない。1ヶ月でも3ヶ月でも少し離れてみることで、楽になったり、冷静に考えられるというのもあると思う。だからまず逃げてみて、まずここに来てみて考えてみたらいいんじゃないか、と思うんです」(佐竹さん)

佐竹さんの勇気が、迷っている誰かの背中を押してくれることを願っている。

(取材・文/石神夏希)

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事例紹介|岡山 「“ない”ことから広がった善意の輪」<インタビュー>

今回ご紹介するのは、岡山県倉敷市の仮り住まい。
最寄り駅である「中庄駅」は新幹線の通る岡山駅、倉敷駅といった大きな駅へも十数分で出られる交通の便のよいところです。

提供者は兵庫県在住の佐藤さん。生まれ育ったこの町でお父様が遺した賃貸アパートの空き部屋を提供しました。

■阪神大震災の経験から、仮り住まいの輪に共感
佐藤さんは阪神大震災の際、震災関連で祖父を亡くしました。このとき、地震で亡くなるのは建物の倒壊や火事など直接的に被災した人だけではない、と身にしみて感じるとともに、「大切な家族と安心してのんびり過ごせる場所の大切さ」を実感したと言います。
実行委員のサイトで仮り住まいの輪を知って共感し、すぐに協力したいと思ったそうです。

「今回の地震は、人ごとではない。関西の人たちはみんなそうだと思います」 (佐藤さん)

また早くに母を亡くし、それゆえの苦労も経験してきた佐藤さんは、「これまで多くの人に助けられてきたことの恩返しをしたい」という思いもあったと語ります。
しかし岡山は東北からかなり離れており、家財道具を一から揃えるとなるとお金もかかります。そのため「移住を前提とした人」を想定していたそうですが、被災地や事情を問わず誰でも受け入れるつもりでした。

提供したアパートは最寄り駅から徒歩5〜10分、自宅からも駅からも徒歩圏内に西日本でも有数の大学病院があります。

また岡山は「晴れの国おかやま」と言われるほど温暖で、穏やかな気候。自然災害も少なく、地震や台風の被害もめったにないと言います。

仮り住まいの輪に掲載後、3件の問合せがありました。うち2件が実際に岡山を訪れ、入居が決まったのは1件。茨城県北部の那珂市から避難してきた田中さん(仮名)母娘でした。

■東京、千葉、埼玉を転々とし、岡山へ避難
田中さんは、ちょうど東京を訪れていた際に被災。子供の健康を思うと茨城に戻ることができず、実父の単身赴任先である千葉へ、そして夫の実家がある埼玉へと移動しながら、避難先を探していました。
埼玉で避難中にインターネットで仮り住まいの輪を見つけ、佐藤さんの物件に出会いました。

田中さんは当初から、移住も選択肢に入れていました。1才9ヶ月(当時)の子供を保育園に通わせながら働き、蓄えができた段階で、いずれは「本住まい」に移りたい。このため「待機児童が少ないこと」「ハローワーク等で求人を調べ、仕事がありそうなこと」といった条件で情報を集め、岡山県なら大丈夫そうだという手応えを得ました。

決め手になったのは佐藤さんが掲載していた写真と物件情報でした。

「キャラクター物のお茶碗の写真が載っていたんです。それを見たら、妙にホッとしてしまって。
他にも、近くに大学病院があることや、1階のお部屋であることを書いて下さっていた。子供がまだ小さいので、2階以上は不安だったんです」(田中さん)

岡山には地縁も無く、行ったこともありませんでした。が、遠方のため下見はせず、メールと電話を経て仮り住まいすることを決断。6月11日、着替えやこたつテーブル等、身の回りのものだけ持って岡山へ向かいました。
当日、佐藤さんと田中さんは現地で初めて対面。鍵を開けて部屋に入ると、中には冷蔵庫、テレビ、炊飯器などの家具家電のほか、その日からすぐ暮らし始められるだけの生活雑貨が揃っていました。

■地元の友人・知人がサポーターに
普段は阪神地域に住み、大阪を中心に仕事で飛び回っている佐藤さん。実は、身ひとつでやってくる田中さんのため、もっと何かできることはないだろうかと考え、ブログでこんな呼びかけをしていました。

5月24日「情報があれば、お願いします。」

このたび、茨城から若いご夫婦が

移住を心に決めて、6月に岡山にやって来られることになりました。

そのガッツに、なんとか応えたい。

古いアパートではありますが、改装を終え、

なんと本日ナケナシのお金で改装代を工務店さんに支払ったところ。

私にとっても絶妙なタイミングで、覚悟を決めた、と奥さんから電話がありました。

とりあえず母子が先にほぼ身ひとつでやって来ることになっています。

用意できるものはできるだけ私が用意するつもりですが

やはり大物は難しい。私自身、遠隔地におるし。

で、もし冷蔵庫や洗濯機が余ってるぞー電子レンジなどもあるぞー

みたいな情報があれば

無償でゆずってやるぞー岡山なら届けちゃるぞー

みたいなおやさしい方がいれば

ご協力いただけませんでしょうか?

どうぞよろしくお願いします。

ブログを書いたときには「そんなに反応ないだろうな」と思っていたそうです。
ところが、この呼びかけに地元の同級生や知人・友人が反応。家財道具の提供の申し出等、佐藤さんへ次々と連絡が入り始めました。
そのときのブログがこちらです。

5月26日「ありがとうございます。」

こんな虫のよい話はないだろうと思いつつ

先日のブログを書きました。

……でも、電話が鳴りました。

亡くなったお母さんの家にある家財を必要なだけ提供する、とおっしゃってくださった方。

どこからか取ってきてやる、とおっしゃってくださった方。

買い換えで引き取った冷蔵庫や洗濯機を

持って行っちゃるぞ、とおっしゃってくださった

電気屋さんのお父さんを持つスーパーな親友。

本当にどうもありがとうございます。

感謝、感謝です。冷蔵庫は2戸ぶん、もう足りそうです。

ありがとうございます。

(中略)

彼女たち家族が、結局移住まではいかなくても、

わずかの間でも、遠慮せずにカラダを休める場所が提供できるなら、と考えています。

(中略)

森は木で、できている。

森を助けるために、まず倒れそうな一本の木から支えようとする人間がいてもいいのではないでしょうか。

福島も宮城も岩手も、人で、できているのですから。

佐藤さんは、同級生から「部屋の鍵を貸して」と言われ、鍵を預けていました。
現地の友人・知人たちは、佐藤さんも田中さんもいない間に「勝手に」家具家電を調達し、運び込みました。佐藤さんから具体的な指示や依頼があったわけではありません。それぞれが奔走し、必要と思われる物・提供できる物を持ち寄った結果、空っぽだった部屋にカーテンがかかり、照明器具がつきました。田中さんの入居時には、食器やトイレットペーパーまでが集まりました。
その部屋を見て、一番驚いたのは佐藤さんでした。

「私の方が感動してしまって。私は、たまたま鍵を持っていただけ。本当に何もしていないんです」(佐藤さん)


家電や生活雑貨を揃えてくれた丸川さん・小野さん

娘や孫のように接してくれた丸川さんの父・岡田さん

佐藤さん(左)と管理会社社長・中島さん(右)

入居後も田中さんの元には、佐藤さんの友人や近所の人たちが「元気?」「足らんもんがあったら言いや」と訪れているそうです。同級生のお父さんが田中さん母娘を食事に連れていってくれることも。

佐藤さんの思いに、地元の不動産管理会社さんも快く協力してくれました。友人や下見に訪れる人への鍵の受け渡し、また入居後の問合せや手続きなど、頻繁に現地へ行けない佐藤さんの代わりに、電話一本で対応してくれたと言います。

「何をしたらいいか分からないけど(困っている人たちのために)何かしたい、と思っている人たちはたくさんいるんですよね」(佐藤さん)

佐藤さんの仮り住まい提供は、そうした人たちが行動を起こすキッカケの役割を果たしました。
のみならず、佐藤さんがひとりで全てを背負い込むのではなく、“足りない”、”いない” といった「ない」を発信したこと。そして、あとは周囲に委ねたこと—いわば「席を空けておいた」ことで、そこに多くの人たちが参加し、力を発揮する場所が生まれました。

今回のケースでは、それは半ばやむを得ない事情(提供者が遠隔地に住んでいた)によるものでしたが、ボランティアによる支援活動の効果を高める上で、重要なヒントと言えるのではないでしょうか。

生まれ育った町の人たちの惜しみない善意と協力。そこから伝わってくる愛情が、田中さんだけでなく、佐藤さんにとって大きな支えになったと言います。

 

■震災を人ごとにしないために
田中さんは現在、週5日パートタイムで介護の仕事に就いています。元々、水道光熱費は実費負担でしたが、田中さんの強い希望で、就職を機に駐車場代も支払うようになりました。

「佐藤さんは1年間無償で…と言って下さってるんですけど、半年と思っています。できるだけ早く、自立した生活ができるようになることが恩返しだと思っているので」(田中さん)

佐藤さんの元には、毎月11日に、田中さんから近況を知らせるメールが届きます。遠く離れて住んでいるため直接会うことはありませんが、お互いにしっかりとした信頼関係を結んでいることが伝わってきます。

「彼女との出会いに感謝しています。彼女のおかげで、私は震災を人ごとにしないで生きていられるから」(佐藤さん)

佐藤さんは今後も、仮り住まいの提供を続けていくつもりだと言います。登録した2室のうち、まだ入居者の決まっていない1室は、現在も仮り住まいの輪サイトで公開されています(※ただし、問合せが来ているとのことです)。

勇気を持って、差し出された手を掴んでみる。
そのことが、自分だけじゃなく、手を差し伸べた相手を救うこともある。
多くの人へと連鎖していく善意の輪は、そんなところから始まるのかもしれません。

 

(取材・文/石神夏希)

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事例紹介|長野 「町ぐるみで温かく迎えてくれた」<インタビュー>

今夏は子供たちの夏休みに合わせ、短期間(数日〜一ヶ月程度)避難を支援するプロジェクトが各地で見られました。

今回お話を伺ったのも、夏休みに合わせた仮り住まいのケース。
長野県は信濃町黒姫の別荘を提供された太田さん(仮名。東京在住)と、福島県白河市から避難された松岡さん(仮名)です。

7月23日〜8月21日まで約一ヶ月間。松岡さんは、2才と6才(小1)のお子さんを持つお母さん。7才(小2)、10才(小5)の姪を合わせ、計4名のお子さんを連れて仮り住まいされました。

※記事中の写真は全て松岡さん提供。いずれも仮り住まい中に撮影されたもの

■仮り住まいをしたキッカケ
ご自宅は原発から約80キロほどの距離という松岡さん。
元々はおばあちゃん(松岡さんの実母)が放射能の影響を心配し、2才のお子さんを連れて移住したいと希望していました。ですが、家族が離ればなれになることは避けたいと話し合った結果、「夏休みだけでも避難しよう」ということに。
そんな矢先、たまたま手に取ったフリーペーパーで『避難を考えている人たちへ』として仮り住まいの輪が紹介されているのを見つけました。

当初1週間程度の避難を想定していましたが、『最長3ヶ月間』とあるのを見て「それだけ長く借りられるなら、夏休みを丸ごと過ごさせてあげたい」と決断。
幸い、松岡さん自身はインターネット関連のお仕事をしており、ネット環境さえあれば避難先でも仕事を続けることが可能。職場の理解が得られたため、おばあちゃん・二人の姪を含む6名で避難することにしました。

■入居者:車で通える距離に絞って物件を探した
「放射能の影響を心配せずに過ごせて、姪たちの両親が車で通ってこられる距離」とい考え、はじめから長野県周辺に絞って探しました。いくつかの物件を見ていく中で、最初に「いいな」と思ったのが太田さんの物件だったそうです。
問合せメールを送り、数日後に太田さんからお電話がありました。

「メールでは家族構成や主人の職業も全部お知らせしました。電話のとき『身分証明書をお送りしますか?』と訊いたんですけど、太田さんは『そういうのは結構ですよ』と言って下さって」(松岡さん)

電話口でそのまま入居が決定。物件探しからここまで、お互いにとてもスムーズだったようです。

■提供者:「福島の子供たちを助けたい」と別荘を提供
一方の太田さん夫婦は、現在では退職されていますが、揃って教育関係のお仕事をされていました。阪神大震災の際には現地でボランティア活動に参加しました。今回は被災地まで行くには体力が足りないけれど、「なんとかして福島の子供たちを助けたい」と考えていました。
教育委員会から「被災地の中高生をホームステイで受け入れてほしい」という募集通知が届いていましたが、ご事情があり太田さんのご家庭では受け入れが難しい。そんなとき、娘さんがたまたまテレビのニュースで仮り住まいの輪を見たことから、自宅での受け入れではなく長野の別荘ならば提供できると、物件登録を決めました。

ですが掲載後1ヶ月ほどは問合せがなく、初めての問合せが松岡さんのメールだったのだそうです。

「知らない人に貸すことに不安はあった。でも、松岡さんが『小さい子供たちを遊ばせてやりたい』というのを聞いて、信じられると思いました」(太田さん)

太田さんは電話で松岡さんの事情を聞き、その場で提供を決めました。

「太田さんは『(子供たちを)10人でもいいから連れておいで』『友達もどんどん連れてきて』と言って下さって。私が面倒を見るのが大変なので、そこまで大勢連れて行くことはできなかったんですけど(笑)」(松岡さん)

■入居前に、別荘で一晩一緒に過ごした
入居に当たっては、普段は人が住んでいない建物でもあるため準備が必要でした。松岡さんの希望もあり、入居前に現地で会うことを決めました。

7月16日、太田さん夫婦と松岡さん一家は、現地で初対面しました。
太田さんが事前に用意していた注意事項の紙面を元に、ガスの交換方法・退去の際の片付け方等、仮り住まい中の過ごし方を話し合いました。負担は水道光熱費の実費のみとし、仮り住まいの輪からダウンロードした契約書も交わしました。
そのまま2家族ともに別荘で一泊。太田さん夫婦は、子供たちにとってはちょうど、おばあちゃん・おじいちゃん世代だったこともあり、すぐに打ち解けて一緒に楽しく過ごされたそうです。

■自ら現地を案内、役場への挨拶回りも
別荘滞在中には太田さんが、車で周辺地域を案内。
のみならず、松岡さん一家と一緒に役場や公共施設に行って「福島からこういう家族が来られるので、できる限りのことをしてあげてほしい」と紹介しました。

「長野という土地には、もともとつながりがあったわけではなく、あくまで別荘地として家を建てただけ。でも長年通ううち、地域の人たちとは顔見知りになっていました」(太田さん)

プールや温泉に入れる「ふれあいセンター」では、被災者を対象に一部施設のみ無料としていましたが、全施設を無料で使用できるよう太田さんが掛け合いました。

役場でもふれあいセンターでも、太田さんの依頼を快く承諾してくれました。
特に役場の人たちは、観光課の課長さんが中心になり、役場の人が自宅で穫れた野菜を持ってきてくれたり、管理人さんを通じて子供キャンプのお知らせを届けてくれたりと、様々な形で松岡さん一家を支えてくれたそうです。

■町ぐるみのサポート

行政だけでなく、地域の人たちも温かく受け入れてくれました。
すぐそばの野尻湖ではカヌー教室が開かれていましたが、カヌーの先生は「福島から来ている人たちはお金はいいですから」と何日も子供たちを遊ばせてくれました。近隣ホテルの人も「泊まっていなくてもいいから、おいで!」とイベントに誘ってくれました。

「福島ナンバーの車で行くから、少し不安はあったんです。でも、嫌な思いをすることは一度も無かった。本当に、皆さんあったかく迎え入れてくれました」(松岡さん)

小さなお子さんを持つお母さんとして、新鮮な野菜を産地を気にせずたくさん食べさせることができたのも、嬉しいことのひとつでした。「そのまま住みたいと思った」というほど、長野での仮り住まいの一ヶ月は、松岡さんの予想を超えて豊かな時間になったようです。

8月の退去日には太田さんも立ち会う予定でしたが、娘さんのご出産が重なったため、叶いませんでした。後日、太田さんが片付けのため別荘へ行くと、机の上に松岡さん一家のお礼の手紙と写真が置かれていたそうです。
太田さんは初めて松岡さん一家に会ったとき、小さいお子さんの肌が真っ白なのを見て「やはり家の外に出られないんだな」と心を痛めていたそうです。
ですが、退去後に残されていた写真に写っていたのは、真っ黒に日焼けして元気いっぱい笑っている子供たちでした。

「それが本当にいい笑顔で。嬉しかったですね。真冬は来てもらっても(雪や凍結などがあり)生活するのが難しいので、登録を削除するかもしれない。でもこれからも、あの別荘を提供していきたいと思っています」(太田さん)

夏休みに子供たちを連れて田舎(実家)に帰るように、少し離れた地域へ仮り住まいする。そこには家族でも親戚でもないけれど信頼できる人たちがいて、温かく迎え入れてくれる。
「仮り住まい」は一時的な避難や「部屋を借りる」ということに留まらず、そうした場所や関係性を持つことにも、つながっているのではないでしょうか。

■今後も子供たちの休みには遠くへ行きたい
福島では、子供たちは常に首からガラスバッジを提げている状態。校庭は土を入れ替えるなど除染が終了しましたが、自宅周辺の田畑や庭の芝生も放射線量の数値が高く、今でも松岡さんは、小さいお子さんを自由に外で遊ばせることはできていないそうです。
近隣県へ遊びに連れて行ったこともありましたが、その後、その地域も決して安全ではないということが分かり、なかなか行き場が見つからずにいました。
関西など遠方に実家のあるお母さんが子供を連れて避難しているのを見て、「遠くに実家がある人はいいなあ」と思うこともあったと言います。

「最初は、一ヶ月も離ればなれになることも含めて、家族それぞれがとても不安だった。全く知らない土地で、ホテルでもないし、山の中なので余震も心配だった。
でも結果的に、『本当に行ってよかったね』『勇気を出して行ってよかったね』と話しています。こっち(地元)にいたら、あんなにのびのびとした夏休みは過ごせなかったかもしれない」(松岡さん)

松岡さんは、今後もなるべくお休みのときは子供たちを遠くに連れて行って遊ばせたいと考えています。その選択肢として今後も「仮り住まい」も検討したい、といいます。
取材後、松岡さんからメッセージを頂きました。

「何もしないでいて後で何かが起きて後悔するよりも、
自分たちで良いと思ったことはやれるだけやっておこうという思いでの行動でした。
今後もその気持ちは変わりません。
そして、子供たちの将来に、あんなことがあったねぇ…って、
でも、なんともなくて良かったねぇ…って、笑って話せる日が来ることを祈るのみです。

同じ思いを持つ福島県の方や、地震や津波などで大変な思いをされた方たちに、
「仮り住まいの輪」を通して、少しでも安心した日々を送れる方たちがいることを願い、
そして、全国にこんなにも支援してくれている方たちがいることを知り、感謝の気持ちでいっぱいです。

まだまだ、戦いは続きますが、
子供たちを守り、そして私も困っている方たちに手を差し伸べられるようになりたいと思います。」

あくまでケースごとに事情は異なると思いますが、松岡さんのお話からは、今後も冬休み・春休みなどお子さんの長期休暇に合わせた仮り住まいや、同地域・同物件を「リピート」するケースが出てくる可能性を感じます。
「避難する人」のサポートはもちろん、「提供する人」のサポートを地域や社会全体で行っていく。仮り住まいの輪では、通称『グリーンページ』というサポーター提供ページを設けていますが、こうしたサポーターの存在が、今後より重要になっていくのではないでしょうか。

 

(取材・文/石神夏希)

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事例紹介|東京「地元に恩返しするため介護の勉強を」<インタビュー>

今回取り上げるケースは、東池袋のマンション「ROYAL ANNEX」を経営するメゾン青樹・青木さんと、このマンションに仮り住まい中の片岡さん(仮名。福島県南相馬市)です。
住人と地域の人たちを招いて、毎年夏の終わりにマンション屋上で開かれるビアパーティ。マンションが出来て以来24年間に渡って開催されてきました。
このパーティに、今年は片岡さんも住人として参加。お客さんを迎えるため浴衣姿の青木さんも一緒に、会場でお話を伺いました。

もともと神奈川県で生まれ育ったという片岡さん。お父様が福島の自然に惚れ込み、南相馬に自宅を建てたことをキッカケに、ご家族で移住されました。片岡さんは神奈川・東京での暮らしを経て、7年前から福島でご両親と同居されていました。

 

■3月11日、被災したサービスエリアから車で福島へ
3月11日はご友人に会うため川崎を訪れていました。車で福島へ戻る途中、立ち寄ったサービスエリアで被災。5時間ほど足止めされました。

日が落ちてから福島へ向け再度出発したものの、高速道路は通行止めに。一般道路は停電のため信号も消え真っ暗。ところどころ陥没や地割れも見られ、通常なら4時間程度の帰路を24時間近くかけて戻ることとなりました。
明け方には津波の被害のあった久之浜地区に差し掛かり、 がれきの山の中を、震える手足を押して運転し続けました。

翌3月12日15時頃に、第一原発から22キロほど離れた自宅へ「命からがら」たどり着きました。

 

■3号機の爆発音を聞き、翌朝には自宅から自主退避
ご自宅は高台にあり、津波の被害はありませんでした。帰りのラジオで聞いた情報は、1号機から5キロ圏内の退避勧告。安全のため出来る限り屋内で過ごしていたものの、親類宅まで水をもらいに行ったり、避難所へ足りない物資を届けたりと、外出もしていたそうです。
3月14日、開けていた窓から爆発音が聞こえました。「最初は花火かと思った」。 夕方には電気が復旧し、テレビで3号機の爆発を知りました。すぐに家族で話し合い、自主避難を決意。翌朝早く、身の回りの物だけ持って車で福島を発ちました。

 

■東京の実妹宅に一次避難し、部屋探しをスタート
ご両親は神奈川県の親類宅に身を寄せましたが、「3人も転がり込むのは気が引ける」と考えた片岡さんは、都内で一人暮らしをしていた妹さんの部屋に避難。
しかし当初から、「いつまでも妹の部屋にいるわけにはいかない」「(事故収束の)見通しも立たないから、住む場所を探さないと」と考えていました。

「肉親だからこそ気を遣ったり、気後れする面もあった」(片岡さん)

避難から一週間程は、妹さんの使わない時間帯にパソコンを借りたり、インターネットカフェへ通うなどして震災関連のニュースをチェックする毎日。その中に、株式会社ネクストが運営する『Lococom』の被災者向け仮住まい情報 を見つけたそうです。
当時掲載されていた提供物件は2件だけ。そのうちの1件が青木さんの物件でした。

 

■見ず知らずの人でも安心できる情報を
青木さんは震災直後から、「仮り住まいの輪」に賛同を示していた大家さんのひとり。サイトオープンまでの期間、出せるところには早く出そうと、ひとまず前出の掲示板に物件情報を書き込みました。
フリーフォーム(記入項目が設定されていない)でしたが、青木さんは不動産業のプロ。どのような情報を記入すべきか熟知しており、スムーズな掲載が可能でした。

掲載内容については、以下の点にも留意しました。

・当時あった空室の中で一番低い階の部屋を提供することを明記
・“なぜこのような活動をするのか”という理由を伝える
(理由のない“慈善活動”には疑いや不安を感じやすいので)
・最初はハンドルネームを使用していたが、
「問合せする人が安心できるように」と実名に変更。
更に、ご自分がお子さんと一緒に写っている写真を掲載

片岡さんは地震直後からSNS(※mixi等、ソーシャル・ネットワーキング・サービス)で友人の安否を確認するなど、インターネット上のコミュニケーションには慣れていました。
それでも最初はやはり「こんなに良いお話がそんな簡単にあるわけない」「私よりもっと困っている人がいて、もう決まったに違いない」と問合せを躊躇したそうです。
迷った片岡さんは、“明後日サイトを見てまだ掲載されていたら問合せしてみよう”と決めました。実際、翌々日まで待ってサイトを確認してから、思い切って問合せのメールを送ったのだそうです。

 

■問合せ当日に下見、入居を決定
片岡さんから青木さんへ、問合せメールが届いたのは3月27日早朝4時半頃。 青木さんは「同居しているご家族に遠慮して、こんな早い時間帯に部屋探しをしているのか」と心が痛んだと言います。青木さんは、携帯電話の番号を添えてすぐに返信しました。

以下、当時のメールのやり取りです。

2011/3/27 04:35 片岡さん→青木さん
『件名: 豊島区の仮住まいについて』

はじめまして。
私は、福島県南相馬市に住んでおりました、片岡と申します。
Lococomの「仮住まい」情報掲示板を拝見させていただきました。
現在、板橋区に住む妹のところに身を寄せておりますが、訳あってこれ以上世話になることが難しいため、支援していただける住居を探しております。
もし、またお部屋が空いているようでしたら、ぜひお願いしたいと存じます。
ご厚意に感謝すると同時に、大変申し訳なく思っております。
ご検討の上、お返事のほどよろしくお願い申し上げます。
携帯番号 ×××××××××××


2011/3/27 08:09 青木さん→片岡さん

『件名: Re:豊島区の仮住まいについて』

片岡様
はじめまして。Lococomに仮住まい登録しました、青木と申します。
まずは、謹んでお見舞申し上げます。

このたびはご連絡ありがとうございました。
ご事情もありそうですし、一度お話させていただけましたら幸いです。
ご都合のよいときに以下までご連絡お願いします。
大変恐縮ですがよろしくお願いします。
携帯番号 ×××××××××××
メールアドレス×××××××××××

この後、片岡さんから電話を掛け、青木さんの「仮り住まいとはいえ、環境が気に入らなければ良くない。ぜひ見に来て下さい」という言葉で、当日中に下見をすることが決定。
その後すぐ青木さんから、Googleマップの物件地図と、妹さん宅からの道順が届きました。

「してやってる感が全くないんですよ。何度も『とにかくここでゆっくりして下さい』と言ってくれて。お客さんとして扱われているような感じ。“これはちょっと違うんじゃないか”、“勘違いされているんじゃないか”と思いました(笑)」(片岡さん)

JR山手線・大塚駅から徒歩6分。「ROYAL ANNEX」は13階建て66戸、単身女性からファミリーまでが暮らすマンション。オートロックや防犯カメラ、24時間オンライン警備等セキュリティもしっかりとしていました。

今回提供されたのは、日当りの良い広めのワンルーム。下見に訪れたその場で、3月30日から入居することを決定。
仮り住まいの輪サイトのオープンを待って契約書のひな形を使い、3ヶ月間の使用貸借契約(水道・光熱費は実費負担)を交わしました。

「無償であっても、これで契約関係。片岡さんは住む権利を手に入れたんですから、遠慮しないでいいんですよ」 (青木さん)


■「被災者」と「支援者」ではなく、同じ立場で
3月11日、青木さんは首都高で運転中に地震に遭いました。

「自分もすごい揺れを体感して、“死ぬかもしれない”と思った。東京もいつ余震があって、逆の立場になっちゃうかもしれない。一方的に被災者を受け入れているというのではなく、同じ立場なんですよね」 (青木さん)

一方の片岡さんには、“被災者だからと何でもかんでも甘えられない”という思いがありました。
家具や家電がないことを心配し、手配してくれようとする青木さん。その申し出を「そこまでされちゃうと、かえって居づらくなっちゃうから」と断り、福島の自宅へ戻って、パソコンをはじめ身の回りのものを持参。足りない家具家電も自分でレンタル業者を探して、環境を整えました。

 

■地元に恩返しをするため、介護の勉強を
自分より大変な人、安全で温かい場所を必要としている人がいるのに、自分が入居していいんだろうか。最初、片岡さんにはそんな罪悪感があったと言います。

「そんなとき青木さんが、『片岡さんはたまたま情報にたどり着けた。動ける人が動くことで、避難所にそれだけ空きができて、良い状況で過ごせるようになった人がいる。片岡さんは地元の役に立ってるんですよ』と言ってくれた。すごく気が楽になりました」(片岡さん)

仮り住まいを始めて一週間、片岡さんはハローワークでの仕事探しと併せて、給付金の支給を受けながら介護の勉強ができる学校を探し始めました。

「介護の仕事をしたいと思ったのは、福島に戻ったとき、絶対に必要になるのが高齢者の介護だと思ったから。自分は以前から、地域の人たちにすごく助けられてきた。福島に帰ったら、今度は私が恩返しをしたい」(片岡さん)

しかしこのときは被災者の優先枠もなく、一度は残念ながら不合格に。
「こんなにしてもらっているのに、合格することができなかった……」と落ち込む片岡さんを見て、青木さんは“片岡さんを元気づけたい”と、東北へのボランティアツアーに参加することを決意します。

「実際の様子を見ていないと親身にお話ができないと感じたし、ぼくが代わりに(支援に)行くことで、片岡さんの気持ちが少しでも楽になれば、と思った」(青木さん)

片岡さんの自宅がある南相馬へは入れませんでしたが、仙台市宮城野区へ。数回に渡って泥の撤去や写真洗浄の活動に参加しました。東京に戻ってからはお土産を持って片岡さんを訪ね、ボランティア活動の報告をしたそうです。
片岡さんは7月1日より、被災者向けの採用枠で就職。 期間限定ながら都庁で働き始めました。介護学校受験の再挑戦を目指し、学校探しと受験準備を続けています。

 

■民間借り上げ制度が適用され、賃貸借契約に
3ヶ月の仮り住まい期間が終了し、2ヶ月の延長契約を結んだ頃、東京都でも民間借り上げ制度実施の告知がありました。しかし当初の条件は厳しく、片岡さんが対象外となってしまう恐れがありました。

そこで青木さんと片岡さんはそれぞれ役所に通って1ヶ月もの間、粘り強く交渉。「せめて面談をして、個々の事情を聞いてほしい」という嘆願が実を結び、実施の際は面談が行われることに。その際、片岡さんの事情が汲まれ、民間借り上げの対象として認められたのだそうです。
補助金の上限は75,000円。元々は賃料9万円前後のお部屋ですが、限度額内に収まるよう74,000円(共益費込み)に引き下げました。現在では家賃を介した賃貸借契約に移行しています。

印象的だったのは、お二人の、立場を超えて誰かを思いやる気持ち。お互いを尊重すると同時に、どんな状況でも自分に誇りを持ち、受け取った善意を大きなプラスへと活かしていることです。

「誰かの力になりたい」という気持ちは循環して、いつか大きな力になって自分のところに返ってくる。思い切って善意を受け取れば、それはきっと次の人に渡せる善意のバトンになる。
そのことをお二人に教えてもらったように思います。

(取材・文/石神夏希)

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事例紹介|湯沢 「初めての海水浴」<インタビュー>

このサイトをご覧になっている方の中には、仮り住まいに興味はあるけど迷っている…という人も多いかと思います。
「仮り住まいに載っている物件ってどんな人が提供しているの?」「本当に無料なの?」「実際に避難してみて、どうだったの?」…そんな疑問・不安を少しでも解消できるよう、実際に仮り住まいを体験された方たちにご協力を頂き、実例を紹介していきます。

今回は、会社の保養施設であるマンションを提供された株式会社イシズエ・有賀社長と、福島県いわき市から仮り住まいされた小野さん(47)にお話を伺いました。

※掲載写真は、小野さんが仮り住まい中に撮影されたものです。


提供者:支援金だけでなく、自分たちの手でやれることを
そもそもイシズエさんが仮り住まいの輪を知り、物件提供したキッカケは何だったのでしょうか。

「地震が起きたとき、会社として何か出来ないかと考え支援金を送りました。
しかしもっと自分たち自身で何かやれないことはないかと、社員たちと話していました。そんなとき、取引のある設計事務所さんから、社員のひとりが仮り住まいの輪のことを聞いてきたのです。
その社員から『うちの湯沢のマンションを提供してはどうか』という提案を受け、すぐに提供を決めました」(有賀社長)

湯沢は東北から遠すぎず近すぎず、家具・寝具備え付けですぐに入居可能。しかも建物内には温泉があり、入り放題という恵まれた環境。「少しでも安心して、のんびり過ごしてもらいたい」という思いから、光熱費も会社で負担することに決めました。


入居者:たとえ半日でも放射線の少ないところで
一方の小野さんは、3月から4月にかけて富山の避難所に奥様と娘さんを避難させていました。小学校の教員である小野さんご自身はいわき市で仕事を続けていましたが、家族が離ればなれの状況を長く続けることは難しく、原発から40キロ程離れたご自宅に戻っていました。

しかし5歳(幼稚園の年長組)の娘さんの健康被害を心配し、週末は足の伸ばせる範囲で遠くに出かける日々。「外で遊ばせてやりたい」という理由はもちろん、たとえ半日でも放射線量の少ないところで過ごさせてあげたい一心だったそうです。

そんなとき、Twitter上紹介されていたいくつかの支援ボランティア情報の中のひとつとして、仮り住まいの輪に出会いました。
湯沢という立地に加え、ショートステイOKだったイシズエさんの物件を見つけ、「夏休みの間、一ヶ月ほど貸していただけないか」と問合せ。職場が夏休みに入る7月下旬を待って、いわきで資格試験の勉強をしている奥様に見送られ、娘さんを連れて湯沢へ避難しました。


なぜイシズエさんを選んだのか
最初は、“善意に甘えるようで申し訳ない”という気持ちで、かなり長いこと迷われたそうです。
しかし、家具家電が無償貸与だったこと、「湯沢」というよく知られた地名から暮らしがイメージしやすかったことに後押しされ、期限ギリギリに思い切ってメールで問合せ。その後は、窓口を担当していたイシズエ・佐藤さんと電話・メールでやり取りを続けました。

「電話口でも誠実さが伝わってきて、すぐ “この人ならお願いして大丈夫だ” と感じました」(小野さん)

契約時には、有賀社長と佐藤さんが救援物資を持っていわき市を訪れました。自分たちを少しでも安心させようと東京から足を運んでくれたことに、小野さんも驚いたと言います。

 

「部屋を貸す・借りる」だけに留まらない関係
仮り住まいの輪を通じて物件提供をされている方たちの中には、部屋を貸すだけに留まらず、避難されてきた方とコミュニケーションを取り、サポートされている方が少なくありません。

湯沢に来た当初、シーズンオフの間使われていなかったエアコンが不調でした。このため小野さんは自分で業者を頼み修理したいとイシズエさんに許可を取っていました。
ところが小野さんが親戚の不幸でいわきに一時帰宅している間に、エアコンは新品の物に交換されていたのだそうです。

「おかげさまで子どもがのびのび楽しく遊ばせていただいています。ありがとうございます」という感謝の気持ちを伝えたい― そんな思いから、小野さんは湯沢にいる間、ほぼ2日に1度は、いわき市にいる奥様とイシズエ・佐藤さんに写真付きメールを送っていたそうです。


娘に初めての水泳をさせてあげたかった
小野さんが夏休み期間の避難を決めた理由のひとつは、娘さんに生まれて初めての水泳をやらせてあげたかった、というものでした。
仮り住まい中にプールに10回、新潟の海に2回足を伸ばし、足のつかないところでも浮き輪を使って泳げるように。以前は水を怖がっていた娘さんが自分から「プールに行きたい」と言うまでになりました。

「いわきの海はこれから先何十年も入れない。“日本海はあったかい”と聞いていたけど、本当でした。そんな体験ができてよかった」(小野さん)

また自分自身がまずは体験してみて、周囲の人に伝えたいという気持ちもありました。

「いわきの人たちには仕事があり、お金も多少ある。だから “タダで借りる” ということに引け目があるようです。とはいえ自費で避難してしまうと、いざという時に必要なお金まで使ってしまうことになる。まとまった休みが取れず動くに動けない人や、インターネットで部屋を借りるということに不安や抵抗を感じる人も少なくない」(小野さん)

避難したい気持ちはあるが踏み切れない親たちの背中を押してあげたい― 小学生を教える先生として多くの親御さんと接する小野さんには、そうした使命感もあったようです。


仮り住まいを経て、生活がリセットされた
湯沢に来てから、小食だった娘さんがご飯をよく食べ、身体も丈夫になったと言います。一日の終わりに「今日は楽しかったね」とニコニコするお嬢さんの変化に、小野さんも「こんなこと言うんだな」と驚かれたそうです。

小野さん自身は、「スポーツニュースが見られるようになった」と言います。
もともとスポーツ好きだった小野さん。でも原発事故があってから、放射線に関わるニュース以外は、耳に入ってこなくなってしまいました。世の中が『なでしこジャパン』に湧いていても、気になるのは「放射能のニュースが減ったなあ」ということばかり。

しかし湯沢で過ごしているうち、また以前のようにスポーツニュースを楽しめている自分に気がついたそうです。いわきでは肌身離さずチェックしていたガイガーカウンターを、ふと忘れてしまうことも。
「生活がリセットされて、原発事故前に少し戻れたみたいで、嬉しかった」と話す小野さん。その明るい声が嬉しい反面、福島の厳しい日常を垣間見た思いがしました。


迷っている人たちへ
小野さんに、避難を迷っている人たちへのアドバイスはありますか?と質問したところ、「一番大切なのは『勢い』と『ご縁』」という答えが返ってきました。

「とにかく問合せをしてみて、一言二言会話してみれば、人となりは分かる。だから、思い切って電話してみてほしい」(小野さん)

一方で、物件登録をされる方のちょっとした工夫が、迷っている方たちの背中を押すこともあります。避難を検討している人の中には、「物件情報の他にも趣味や個人でやっているブログなどが紹介されていると安心できる・連絡しやすい」という人もいるようです。

「(こうした活動を)誰のためにやっているのか?と考えたときに、あくまで相手の人のため。相手の人の心で考えることが大事だと思います」(有賀社長)

イシズエさんは、入居者が仮り住まいを延長したければ出来る限り対応するし、これからも物件提供はずっと続けていきたいとのこと。小野さんも、短期滞在OKなど条件の合う物件があれば、また仮り住まいをお願いしたいと考えているそうです。

「いずれ機会があれば、東京のイシズエさん本社に行って、お礼が言いたい。佐藤さんは『わざわざ来なくていい』と言うんですけどね」(小野さん)

「仮り住まい」を通じて生まれる縁や絆こそが、 避難される方にとっても、また部屋を提供される方にとっても一番の力になる。小野さんとイシズエさんのお話には、そんな「力」が溢れていました。

(取材・文/石神夏希)

 

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活動報告|夏休み企画 子供向けイベント

夏休み間だけでも、子供たちを安全なところで思いっきり遊ばせてあげたい。
そんな思いに応えて、被災地の方を特別受け入れしているイベントを集めました。

人数に制限のあるイベントもありますが、ぜひお問い合わせ下さい。

また、いまからでも受け入れ可能なイベント主催の団体さんいらっしゃいましたら、ご協力お願いします。
ご協力いただける方は、仮り住まいの輪のグリーンの「サポーター提供」ページからお問い合わせ下さい。

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事例紹介 | 石巻「おばあちゃんの学習塾」<インタビュー>

「どこからおいでになったのす?」

お腹の底から響いてくるような柔らかい声と、凛と気のみなぎる瞳。
震災からちょうど3ヶ月を迎えた、6月11日。石巻でご自宅の離れを仮り住まいとして提供された三浦つよしさん(70歳、女性)にお話をうかがってきました。
お住まいは、つよしさんに似てどっしりと落ち着いた佇まいの古民家。「おっぴさん(曾祖父母)の代」に大火で焼けた家を建て直す費用がなく、古民家を移築してきたそうで、すでに築400年から500年ほどにもなるそうです。
山形の大学で建築を学んでおり、地震発生当時も山形にいた孫の高橋秀詠さんは「とっくにつぶれたと思った」そうですが、昔の家は柱と梁がしっかりしているため、かえって地震に強い場合もあるそう。秀詠さんも小さい頃から、よくこのお家に遊びに来ていたそうです。

今回、仮り住まいとして提供されたのは、母家から数十メートル離れた同敷地内に建つ離れ。こちらの建物はもともと、半分は農作業の作業場として、もう半分は学習塾や絵画をたしなむおじいちゃんのアトリエとして使われてきました。もともと住居ではありませんが、以前は料理教室だったこともあり、ガス・水道が通り、コンロもあります。トイレもついており(風呂は無し)、入居者の方は提供者の方と水回りを共有せず、一家族占有で暮らしています。

今回、この物件を仮り住まいとして提供し、被災者の方が入居するまでの経緯をお聞きしました。

■「入りたい人はいないか」避難所を回って探した
地震の直後、テレビで沿岸部の被災状況を知ったつよしさんは、すぐに「家の離れを困っている人に貸したい」と考えました。ご友人にも港のそばに住んでいる方が多く、まずは友人仲間のリーダー的な方から「離れを提供できる」と情報を広めてもらおうと、震災後3日目から避難所回りを始めました。

朝と夕方の一日二回、40人分ほどのおにぎりとおかずを背負い、さらには水を入れたポリタンクを両手に提げ、避難所へ通いました。瓦礫の上は歩いて、水のあるところは車で。「危ないから」と娘や孫たちに止められながらも、「家にあるだけの食べ物は全部あげたい」と、避難所に通う日々が続きました。
つよしさんは、避難所で身を縮めて眠る人たちの姿に胸を痛めながらも、仲間に情報を広めてくれるご友人を見つけることができず、誰に、どうやって離れを貸せばよいのか、方法が分からず困っていたといいます。

■お孫さんを通じて「仮り住まいの輪」と出会う
そんなとき、秀詠さんが【仮り住まいの輪】という仕組みがあることを知らせてくれ、「おばあちゃんのところの離れを提供したら」と勧めてくれました。おばあちゃんの“困っている人の力になりたい”という気持ちと仕組みが出会ったことで、「輪」が広がり始めました。

はじめは、2階に2部屋あるので夫婦なら2家族くらいは入れるだろうとアタリをつけ、水回りのある1階は共有スペースに、と考えたそうです。また被災された方が親類縁者の家に身を寄せるケースも多いなか、高橋さんたちは最初から「親戚ではない方に貸し出す」と方針を決め、避難所での情報発信を始めることにしました。

まだまだインターネットもプリンタでの印刷も難しい状況のもと、秀詠さんが手書きのチラシをつくり、避難所を歩いて回りました。あっという間に数件の問合せがありましたが、最終的には生後3ヶ月から小学3年生まで4人の男の子をもつ30代のご夫婦に決定。大人数のご家族のため、結果的に1家族のみの入居となりました。
お父さんは牡鹿半島・小渕浜で海苔の養殖に携わっていましたが、港が被災。契約や近所への挨拶回り、備品の手配などはすべて秀詠さんとそのお友達が奔走しました。入居の際は手作りの表札をプレゼントし、とても喜んでもらえたそうです。

※秀詠さん自身が書いた活動レポートは>こちら で読めます。


■子どもたちがのびのびできる環境
農業を営んできたつよしさんの家は普通の水道と併行して、山水を引いた簡易水道を使用してきました。離れにもこの山水が引かれているため、水道代は一切かかりません。このため入居者さんの負担はガス代と電気代のみ。
自費でお風呂をつけたいという希望もあったそうなのですが、仮設住宅の建設ラッシュのためボイラーが手に入らず、現在も自衛隊のお風呂やご親族の家のお風呂に通っています。入居されたご家族が購入したものは、冷蔵庫とテレビ。小さいお子さんたちがアニメを見るためテレビは必需品とのことですが、この家の周囲の環境も、子どもたちが避難所の生活から離れてリフレッシュするにはもってこいのようです。
家の目の前には小川が流れ、今もつよしさんがキャベツやブロッコリーを育てているという2ヘクタールもの畑が広がります。内覧で初めて訪れたときから、4人の男の子たちは元気いっぱいに家の周囲を走り回っていたそうです。

■親類縁者とは異なる「ほどよい距離」
畑で穫れた野菜を分けてあげたり、顔を合わせば「ただいま」「こんばんは」といった挨拶を交わすことはあっても、必要以上に関わることはないという、つよしさん。お父さんは毎日ガレキ撤去のため港に通い、ご親族も未だ見つかっていない入居者さんご一家をそっとしておいてあげたい、という思いもあります。

3ヶ月という長期間の間貸しにおいて、こうした「ほどよい距離感」がプラスに働いている面もあります。お知り合いのなかには、親族を受け入れた結果かえって気遣いが多く、疲れてしまったというケースも少なくないのだとか。

一方、山形に戻った秀詠さんは住宅や不動産について勉強する学生さんだけあって、2週間に1度ほどは入居者さんご一家に電話をかけ、困っていることはないか尋ねるなど、アフターケアも心がけています。必要以上に踏み込みはしないけれど、「部屋を貸すだけ」にならないように。つよしさんからも秀詠さんからも、自分よりも大変な状況にある人たちを思いやり、心を砕いていることが伝わってきます。

「ほどよい距離」を心がけるつよしさんですが、子どもたちはとても人懐っこいようで、つい先日も、小学生の息子さんが3ヶ月の弟さんを「おばあちゃん、この赤ちゃん抱いてあげて」と言いにきたのだそうです。

夏になれば、子どもたちはウチの前の沢で遊んだらいい。昔よりはあの川もだいぶ浅くなったけれど、と目を細めるつよしさん。その瞳の奥には、秀詠さんが小さかった頃の風景が映っているようにも見えました。

※3ヶ月経過後、入居者さんご一家のご希望で、仮り住まい1ヶ月延長となりました。(7月現在)

(取材・文/石神夏希)

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